Teoriaは、ギリシア語で「観想、観照」のこと。
 知る喜び 色の楽しみ
 縦糸と横糸が出会い 新たな布が生まれる驚き
京都の小さな文化サロンで、  Teoriaの時間をお楽しみ下さい。

茶の湯のカフェゼミ付記:千種掃雲と薔薇一輪

先日のカフェゼミでご紹介しました掛け軸の作者について、

手元にあります『日本画革新の夢 千草掃雲』(1992年、日本放送協会「<NHK日曜美術館>幻の画家 回想の画家②」)より引用します。

「日記抄」より
美術家とは如何なるものかと言う事で(引用者補:上田敏先生が)話されたが、学問的に話され、然も滑稽も加はりて甚だ有益に面白い話であった。而して此の先生の意見では、之より新しき芸術を作らんと思へば、どうしても油絵でなければならぬと言はれた。
日本画の命脈の心細さ。斯の如く少し知識のある人は皆此の言であるのに、今の日本画家は何とか反省しそうなものなのに、一向反省どころか、未だ煩悶する連中もない様だ。吾等何とかして新らしき日本画を造らねばならぬ。(明治四十二年三月十一日)

巻末略歴より抜粋。

1873(明治6)年 7月16日、京都生。本名顕男。後醍醐天皇に供奉した千草忠顕の子孫。
1887(明治20)年 西陣漢方医の玄関子となる。与謝野鉄幹らと交友。
1888(明治21)年 この頃、神戸に出て神戸市長の玄関子となる。茨木翠岳に弟子入り独学で古画を学ぶ。
1895(明治28)年 竹内栖鳳に師事、号を掃雲と定める。
1903(明治36)年 聖護院洋画研究所に入り浅井忠について洋画の勉強を始める。
1906(明治39)年 同志と丙午画会結成。
1908(明治41)年 京都府立第ニ高等女学校美術教師(〜1916年)
1915(大正4)年 京都高等工芸学校講師(〜1943年)
1944(昭和19)年 10月16日死去(71歳)

Cafeの掛け軸の字は、「壬子」と読める(たぶん)ので、
1912(明治45か大正元)年の作と考えられるが、

最後の「写」というのは、掃雲の画を写したものなのか、
掃雲が何かを写したものなのか。
寺町通の骨董店では「直筆です」とのことでしたが(笑
何かお分かりの方は是非ご教示を願います。




【備忘】
 1912年、明治大正の変わり目の頃といえば、漱石が活躍していた時期。『彼岸過迄』『行人』のほか、「文展と芸術」も朝日新聞に連載している。彼の文展批判は有名。千草掃雲は大正3年第8回、6年第11回の文展に作品が入選している。掃雲は漱石の批判を如何読んだだろうか…。
参考:http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1747_14970.html


当Cafeの掛け軸は、ご覧のとおり、
至って様式的な「掛け軸」の「日本画」に欧米とおぼしき街路を歩く西洋婦人と幼女の後姿が描かれている。
あるいは掃雲が若き日にすごした神戸の街なのか。



いずれにせよ、
和洋混交の不思議な風情の絵です。



おもてから見ると京町屋「風」ながら、実は内部のゼミ室で研究会などさまざまな活動を展開している、当カフェにうってつけの軸ではないでしょうか。



この軸をごらんになった千枝先生が入れて下さったお花がこちらです。


一見、
可憐な牡丹か芍薬か、お茶の席にふさわしい和花かと見えるのですが…、


近くに寄ってみますと、その高い香りから、実は洋花の「薔薇」であることがわかります。



まるで
ビーダーマイヤーかヴィクトリア朝のイラストにでも登場しそうな、可憐なピンクの薔薇の花。


可憐なみつばしもつけが、
薔薇のやさしさを一層高めています。



このお花を、
川上千枝先生は、お茶会のわずか数時間前にお越し下さって、床を一見して下さっただけで、店主の意図をすべてくみとり、さっと近所で買って来て入れて下さいました。


先生のすばらしい感性と技術に、あらためて驚かされ、深くうたれました。


本当にありがとうございました。